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できる気がしてきた。

Githubな活動記録を公開してます

東日本大震災の時関東地方に住んでいました。

震災から6年が立ちました。

 

メディアでは6年前の震災を振り返るときやはり被害の大きかった東北地方を取り上げますが、一方で被害の少なかった関東地方での震災の時の状況を取り上げることはありません。

 

それは当然のことであり仕方のないことではあるのですが、関東地方での被害もやはり等しく記録されておくべきではないかと思うのです。6年前日本にいた全ての人が、少なからず震災の時の記憶を持っていてそれらは一つ一つ歴史的価値のあるものだと思うからです。

 

僕は阪神・淡路大震災の直後に生まれた人間で当時の記憶はありません。6年前の震災以前の僕ならば阪神・淡路大震災は非現実的で物語的な教訓話としてしか捉えていなかったと思います。6年前の震災を経て阪神・淡路大震災の記憶にどのくらい歴史的価値があったのかを思い知りました。

 

6年前の震災のあとに生まれた人は、次の大震災が起こるまで以前の僕と同じように実感がわかないと思います。それは仕方の無いことであると思います。

 

僕がここに書くのは6年前の震災時に関東圏に住んでいた15歳の少年の記憶です。

 

当時僕は中学校を卒業し高校の入学式を楽しみしながら少し長い春休みを謳歌していました。3月11日は晴れていました。少し暑いくらいの陽気で僕は家で過ごそうと思っていました。

 

正午、僕は母と二人で昼ご飯を食べながらバラエティ番組を見ていました。

どんな内容だったかは思いだせませんが、3時間後流れる映像とは全く異なる明るいものだった気がします。ご飯を食べ終わると僕は2階の自室に戻りました。当時はまだスマートフォンが普及していませんでしたし、僕は携帯を持っていなかったので暇つぶしに適当な本を読んでいました。窓から母が近所の人と井戸端会議をしている声が聞こえていました。

 

14時、僕は読んでいた本を変え新しい本を読みはじめました。

当時から僕はファンタジーが好きでその時選らんだ本も確かファンタジーだったような気がします。本を変えるついでに、1階に降りてお茶をのみに行きました。母は外でまた井戸端会議中でしたが、居間のテレビは点きっぱなしでした。

 

1445分、2階に戻って本を読んでいた僕は揺れを感じました。

2階にいた僕は、おそらく多くの日本人がそうであるように地震が収まるのを部屋で待つことにしました。しかし地震は一向に収まる気配がなく、長い時間揺れていました。僕は外に出ることを決め居間に降りました。居間には外にいたはずの母がいて財布を探していました。僕が「母さん避難しよう」というと、母は「保険証が無いと困るのよ!」といっていました。財布はすぐに見つかり、母は庭につながる窓から、僕は玄関から外に出ました。

 

おそらく15時頃、広域避難場所に行きました。

僕の手にはなぜか鳥かごがありました。ちなみに僕は鳥を飼っていません。では、なぜ鳥かごを持っていたのかというと避難している最中に近所の人から鳥かごを頼まれたのです。僕は何も持たずに避難していたのでそれを引き受けたのでした。

 

地震が収まったあと僕は家に戻りました。

幸い家は潰れておらず、家具が倒れていたりということはありませんでした。ついたままのテレビを見ると、どのチャンネルもヘルメットを被ったアナウンサーと真っ赤な日本地図が写っていました。真っ赤な日本地図は、日本沈没を思わせるような絶望を僕に与えました。

 

事実しばらくしてテレビから流れてきたのは日本が沈没していく様子でした。

津波の到来した時の中継はまず、港から始まります。津波は港にある堤防を超え、陸に流れ込んできました。僕はそれをお風呂の水があふれた時のようだとミスマッチな表現を心に抱いたのを覚えています。その後中継は陸を侵食していく津波の映像でした。ヘリコプターから撮ったであろう中継には、いくつもの屋根に人が取り残されていて、そこに津波が襲い掛かってくる映像が写っていました。また車を押し流す映像も流れていてその中には人影が写っていたりしており、それはまさに映画のワンシーンのような非現実的な恐怖を帯びていました。津波の中継は続きます。実際18時くらいまでは、生中継でどの局もその映像が流れ続けており、外が薄暗くなって中継が難しくなるとそれまでの中継を加工したものが流されていました。

 

津波の映像は1週間以上流れ続けていたように思います。

津波の映像が終わったのは原発事故がきっかけでした。地震津波によって原発に問題が発生したのです。津波の中継の映像から発電所の監視カメラの映像に変わったとき、首都圏の人間には見えない津波が押し寄せてきしました。放射能問題です。あちこちから気流に乗った放射線を帯びた土煙が関東地方を覆いました。至るところから高い放射線量が観測され見えない津波に恐怖する人が増えていきました。特に食品に関しては敏感になり、様々なデマが横行しました。

 

約1ヶ月後、僕は高校の入学式にいました。

入学式は震災の影響で大きなホールが使えず、体育館で行われました。校長の話はご多分に漏れず震災の話で、震災を乗り越え強い日本を作って行きましょうという内容でした。入学後は原発事故による節電の影響で各地で輪番停電が行われました。輪番停電は夏まで続き、原子力発電所が停止したことの被害の大きさを物語りました。僕は自宅からかなり離れた高校に進学したため電車通学の時間も人並み以上に長かったのですが、通学中何度も震災の余震と思われる揺れによって電車が30分以上止まる日々が1ヶ月ほど続きました。

 

震災から2ヶ月も経つと関東では、震災のショックから回復しはじめました。

テレビも震災の映像だけでなくバラエティ番組こそ減りましたが色々なニュースが流れ始めました。人々の心に余裕が生まれると今度は震災の責任問題など、政治的な問題が取り上げられ始めました。政治的な問題のメインは原発事故でした。学校の授業でも、こういった問題は取り上げられ倫理の授業などではよく題材として扱われていました。僕の高校にも福島から避難してきた生徒が何人かいましたが、幸い差別もなくごく普通の生徒として暮らしていたように思います。

 

震災から約1年後、東北の被害は歴史上の事実として乾燥し始めていました。

政府は東北復興を目標に掲げ色々と策を講じていましたが復興の状況は芳しくなく荒廃しているらしいということをメディアを通して知りました。とくによくメディアが取り上げたのは震災当時及び震災後の美談でした。復興が進むに連れ、世の中の関心は死んだ人達から助かった人たちへと変わっていき、その点で、僕は震災の記憶が、死というネガティブなイメージから生というポジティブなイメージへと移り変わった瞬間だと思いました。

 

以上が僕の震災にまつわる記憶です。

 

時は流れ6年たった現在東北の復興状況はだいぶ進んだらしいです。いわゆる原発事故による避難区域も小さくなり多くの土地が津波の被害から復興を遂げたというニュースが流れてきます。6年前に震災はすでに過去の震災として歴史になり、今は熊本の震災が最近あった大きな震災となりました。

 

関東にはまた地震が直撃していませんが、日本に住んでいる限りどこかで被災することもあるかと思います。その時僕は何を持って避難するのでしょうか。今はまだ何も持たずに避難しそうです。